高校生の成績の順位の持つ意味とそのとらえ方

昨日は、子どもの習い事の付添をしていました。高校生のお子さんを持つお母さんたちと、話題になったのが、お子さんの成績についてです。

週末から夏休みに入った学校が多いと思いますが、夏休みの直前に分かるのが、一学期の成績。その成績に順位が出るという話で持ちきりでした。

話題に上がった学校は、いずれも公立高校。中学校では順位が出ていなかったそうですが、高校では順位が発表されたということが話題になっていました。

教科毎、五教科の合計で、それぞれ学年順位とクラスの順位が出る学校がある一方で、五教科の合計で学年順位が出る学校がありました。また、理系・文系でクラスが別れてからは、理系クラス、文系クラスでそれぞれ順位が出る学校があり、さらに理系クラスは一クラスしかない上、男女別に順位が出る学校があるとのことです。

その結果を知り、今年高校に上がった高校1年生のお子さんは、中学校のときと比べて学年順位がとても上がったことに大喜びをしたそうです。もちろん、その話をするお母さんも、とても嬉しそうでした。

一方、文系・理系クラス毎に順位が出る学校に通っていて、理系クラスの男女別に順位が出る学校にお子さんを通わせている方は、少ない人数で序列がはっきりしてしまうので、人間関係に影響しないかと心配していました。

成績の順位が出ることは、自分の相対的な位置が分かることや、それを見て励みになる場合は、とても効果があると思います。

ただし、定期テストと言っても、同じ科目を同じ先生がすべて担当しているわけではないですし、クラス毎にテストが違うこともあり得ますし、テスト自体も自分が教わっている先生が作るとも限らないのです。あくまで目安でしかありません。お母さん達もそのことは承知の上で、一喜一憂されていました。

専門家の立場から言えるのは、進学等進路に影響するのは、内部進学等て人数で切る場合を除き、順位自体ではなく、通知表に記載される成績(いわゆる評定)です。順位ほあくまで目安で、モチベーションを上げるのに使っていただけばいいと思います。保護者の立場では、評定を注視することが、進学等には欠かせません。

たった1点で評定が一段階変わることがあります。1つ順位を上げることよりも、1点でも上を目指して勉強できるかが、進路を制すると、過去に悔しがっていた生徒の顔が浮かび、しみじみ思うところです。

中学生の問題を、大学生が考えると…

今日の授業では、中学生の友人関係の問題を事例として紹介し、自分たちが中学生だったらどう解決するか、大学生に考えてもらいました。

登場する中学生の人物について、詳しく設定してみるグループ、自分が中学生だった頃を思い返しながら考えるグループ、そして、全く思いつかないグループと、実にさまざまでした。

考えてもらった後に、その事例で中学生が解決した方法を伝えると…

「全然思いつかなかった!難しい」

という感想が多く聞こえました。


正解を導くことが目的ではないのですが、考えているうちに正解を出したくなってしまうようですね。悔しがっていた方が見受けられました。

大学生がこのワークを通じて感じていたのは、中学生の友人関係の問題は、本人たちである程度解決できるということでした。子どもの友人関係の問題は、大人が聞いてしまうと、「何とか助けてあげたい」と思いがちです。でも、子どもの気持ちは、子どものほうが良く分かるようです。

子どもの問題というのは、放置するのは問題が見えにくくなり深刻化してしまうので良くないと思いますが、大人が介入したことで余計にこじれてしまうケースもありますよね。そのあたりのさじ加減は、本当に難しい。

どれが正解ということはないですが、例えば中学生が友人関係の問題を相談してきたら、一緒に考えたり話を聞くのに留め、彼らに任せてみるのも一案だと思います。

見守るのは忍耐が必要ですが、そこは大人の我慢どころかもしれませんね。

今日授業をした大学生たちは、自分たちがもう十分大人で、それゆえに子どもの気持ちは分からないことを痛感したようです。

捨てる神あれば拾う神あり、そして感謝

昨日は地元で大きなお祭りがありました。子どもたちにとっては、年に一度のビッグイベント。何ヶ月も前から、この日が来るのを楽しみにしています。その証拠に、一緒にお祭りに行く約束を、何ヶ月も前からしている子も多いのです。

小6のA君もその1人。6年生になり、新しいクラスになって間もない時期に、友達のB君から、一緒にお祭りに行こうと声をかけてもらいました。声をかけてもらって嬉しくて、お祭りが来るのを首を長くして待っていました。

そして、待ちに待った、お祭りが行われる7月になりました。すると、B君は突然、別の友達のグループに合流したいと言い出しました。A君はそれもいいと思ったので、「いいよ」と返事をしたそうです。

B君が合流したいと思ったグループの子たちは、自分たちは大人数のグループになってしまったから、これ以上は無理ということで、断られたそうです。

しかし、B君はどうしてもその子たちと一緒に行くのを諦めきれず、君だけが無理を言ってそのグループに入れてもらい、A君はB君に断られてしまいました。

A君は、春から楽しみにしていたので、すごく悲しくなったそうです。ですが、別の友達にそのことを話したところ、そのグループに入れてもらえることになりました。

少し悲しいことはあったけど、友達と一緒にお祭りに行けるのが嬉しくて、ワクワクして当日を迎えました。学校から帰り、急いで集合場所に。でも、その時に雨が激しくなり、友達の提案で、「雨だからやめておこう」ということになってしまいました。

天気ばかりはどうにもできません。A君はしょんぼりしながら、家に向かいました。すると、また別の友達のグループにすれ違いました。

そのグループの友達に、「お祭りいかないの?」と言われ、「雨が降ったから行かないことになっちゃった」と答えたそうです。そうしたら、「俺たちは雨だけど、行くよ」と言われました。

A君は、ちょっと悩みましたが、勇気を出して、

「一緒に行ってもいい?」

と聞きました。すると、「いいよ~」と気持ちよく答えてくれたそうです。

そのグループの子たちは、おそらく一刻も早くお祭りに行きたかったのではないかと思いますが、A君が自転車を取ってくるのを待っていてくれて、無事一緒に行けたそうです。

「捨てる神あれば、拾う神あり」とは、よく言ったものです。A君は、二度も神様(友達)に拾ってもらいました。

お祭りでは、お小遣いの範囲でめいいっぱい楽しんだそうです。そして、お祭り発祥の場所にあった銅像のところに募金箱があったので、おこづかいから100円募金してきたそうです。


きっと、神様への心からの感謝の気持ちでしょうね。

大学生の親世代が受けてきた教育が、進路選択に与えた影響

昨日は祝日(海の日)ですが、大学の授業は、暦に関係なく決行。月曜日に授業を持っている大学は、ビジネス街にあるので、街は閑散としていて、学生もこちらも調子を崩す感じでした。

それはさておき、昨日の授業で扱ったテーマが、大学生の親世代(おおむね50代~60代前半)が学校教育を受けた時期である、1970年代の教育観が形成された背景に関することでした。授業を履修している大学生たちに、大学受験をするにあたって、親世代(学校の教員含む)のどんな教育観に触れたことがあったかを、グループで話してもらいました。本人の意思を尊重してもらって進路を決めた方が多かった一方、こんな意見が出ました。




- 理系のほうが良い(理系に進みなさい)。

  • 国立大学を受けなさい。
  • 名の知れた大学を選びなさい。
  • そこそこの偏差値の大学に進学しなさい。

大学生の親世代は、1968年の学習指導要領改訂(小学校は1971年、中学は1972年、高校は1973年施行)よって定められた教育課程の下、教育を受けました。そのポイントは、「教育内容の現代化」で、学習時間・内容が他のどの時期に比べても多く、理数教育に力を入れていたという特徴があります。

また、1960年代から高校進学率が徐々に上昇し、1973年には90%を超え、それに伴って大学進学率も上がってくる時期で、いわゆる受験競争が激しくなった時期でした。

そんな時期に教育を受けた世代である大学生の親世代の方は、受験に対する意識も高く、理数教育に力を入れていたことも手伝って、理数系に進学すること・より難関校を目指すことが当然だと思っている傾向があるように思います。

ちなみに、昨日授業をした大学生たちは、全員理数系です。親世代の方に強く薦められて理数系を選択したか、聞いてみました。ほとんどの方が、自分の意思(背中を押された方含む)で決めたそうですが、ある学生さんが帰りがけに言った一言に驚きました。

センター試験で国語は8割を超えていたのに、数学Ⅱは××点だったんです!」

私を含め、その場にいた仲間が、

「えーーーっ!!!」

と衝撃を受けました。

ご本人は芸術系に進学したかったそうですが、得意ではない理数系に進んだのは、親御さんが理数系を強く薦めたからだそうです。でも、いまさら進路変更するつもりはないので、このまま頑張るとのことでした。


この学生さんの事例は極端な例かもしれませんが、今の大学生の親世代の方が、理数系を重視しているという風潮はあるようです。また、生徒さんやお子さんの得意な科目に合った進路というよりは、自分が受けた教育が正しいという考えに基づき、指導や助言をすることがあるということです。

このことは、言い換えれば、アドバイスする側というのは、自分が受けてきた教育を基準にしてしまう傾向にあると言えるのではないでしょうか。進路の選択は、本人の意思を尊重したいところです。でも、アドバイスする側も自分が正しいと思ってやってきたことですから、なかなか難しいですよね。

「アドバイスする側が、自分が受けてきた教育を客観視できるかが、若者の進路選択を左右しかねない」、そう心に刻んでおきたいと思いました。

最後に笑う人は、最初からは分からない

 今日も、昨日に引き続き、子どもの習い事の付き添いでした。また、母親同士で子どもたちの練習を見守りながら、立ち話をしたので、そのうちの一エピソードを書きたいと思います。

 

コーチが、新しく入った子たちに対して、「この子は◯◯だよね」とコメントをしているのを聞いて、指導をする方は、ちょっと子どもたちがやっているところを見ただけで、いろいろなことが分かるのかなあと感じました。

 

そのことを、あるお母さんに話したところ、その方のお子さん(高2・女子)の話をしてくださいました。

 

そのお嬢さんは、高校に入学して部活に入った時に、そのお母さんのお話では、部の中で一番上手ではなかったそうです。お母さんも、「大変だったら、部活辞めていいよ」と言っていたそうですが、練習を重ねているうちに、どんどん上手になっていき、高3が引退した今では、エースをつとめているそうです。

 

どうしても、指導者の方に、「君は◯◯だよね」、「いくら注意しても、できないよね」ということを言われると、本人も親も「そうかなあ~。頑張ってもできないから、自分(うちの子)はセンスないや…」と思ってしまいがちではないでしょうか。うちは親子共々そう思ってしまい、必要以上に落ち込むことが多いです。

 

でも、このお話を聞いて、やはり最初はそんなにできなかったとしても、本人の努力次第で、エースになることだって十分あることが、良く分かりました。

 

よく考えてみれば、当たり前のことですよね。でも、長年そのスポーツの指導者をされてきた方に、「センスがある」と言われれば嬉しくなり、「全然できていない」と言われれば、「自分なんかどうせダメなんだ」と落ち込んでしまうもの。

 

教員も知らず知らずのうちに、子どもたちに対してコメントをしてしまうことがあると思います。でも、専門家である教員に、プラスではないこと言われると、「自分なんか、どうせダメなんだ…」と、子どもたちは否定的に感じてしまうのだと思います。

 

この女子高生のように、ひたむきに努力することで、最後は「笑う人」に成り得るんだということが分かっただけでも、頑張ってスポーツをやっている子どもたちにとっては、大きな心の支えになると思います。

 

このお話が聞けてよかったです。厳しい指導を受けて落ち込んでいる子がいたら、今日聞いたお話をしてあげたいと思います。

 

小学生のファッションセンス

今日は、子どもの習い事の付き添いをしていました。一緒に活動している母親同士で、子どもたちの見守りをしながら、立ち話。そこで話題に上がったのが、子ども(小学生)のファッションセンスでした。

 

朝、学校に行くときに、子どもが自分で着る服を決めるかどうかという話をしていましたが、自分を含め、その場にいたお母さんのお子さんたちは、全員「自分で選ぶ」派。自分で選ぶこと自体はいいことだと思うのですが、そのセンスが不可解という話で盛り上がりました。

 

ある小学校4年生の男の子は、わりと派手な色が好きで、ある日、その子が選んだ服が、Tシャツもズボンも「黄色」だったそうです。それに驚いた彼のお母さんは、

 

「ちょっと、それ違うんじゃない?」

 

と言ったそうですが、本人はどこ吹く風。そのまま「行ってきまーす」と元気に学校に行ったそうです。

 

そして、小学校3年生の女の子は、上はお気に入りのボーダーのTシャツを着て、下はストライプのショートパンツをチョイス。その子のお母さんは、心の中で「その組み合わせ、どうなんだろう?」と思われたそうですが、本人がとても気に入っているお洋服なので、「いってらっしゃい」と送り出したそうです。

 

かくいう我が子も、数年前(小学校2~3年の頃)は、上下とも赤または青といった服を選んで登校していたことを思い出しました。親としては、ちょっとそのセンスにびっくりしましたが、本人には、「自分が選んだんだからいいの!」と言われた気がします。

 

子どものファッションセンスは、大人の感覚からすれば、びっくりするものがあります。だから、つい、「おかしいんじゃない?」とか「違うんじゃない?」と言いたくなってしまうことがあるかと思います。でも、ちょっと客観的に考えてみると、周りに何と言われようとも、自分が気に入ったもの・好きなもの・良いと思うものを選ぶということは、尊重すべきことではないかと思いました。

 

「自分の好き」を基準に、着たいものを選ぶということは、子どもの子どもらしい一面なのかもしれません。

 

そう考えると、子どもが周りの目を気にして、着る服を選ぶようになってしまうのは、子どもらしくないのかもしれません。ちょっとギョッとするような洋服のチョイスも、容認したほうがよさそうですね。

 

昨今、個性尊重の教育が叫ばれていますが、子どもが着る服は自分で自由に選び、その選んだことに対して大人が否定しないようにすることも、個性尊重の教育に一役買う気がします。

博士課程修了生に、「生きる糧」を

日本の教育システムでは、大学院の博士課程修了が最終地点です。大学を卒業し、大学院に進学して、博士課程を修了する、つまり、博士号を取得することは、教育システムの最高峰に辿り着いたということになります。
 
しかしながら、そういった博士課程修了生が活躍できる場、特に文系の場合、大学の教員になるなど、かなり限定的なのも事実です。しかも、その大学教員のポストは、ごくごく狭き門で、そのポストに就けるまで、博士課程修了後何年も、場合によっては10年以上かかることもあります。
 
せっかく時間とお金を費やして学んできたことが、その人自身の「生活の糧」として還元されないのも、また、世の中に還元されないのも、本当にもったいないことだと思っています。
 
去年、ほぼ最短年月で博士号を取得したAさん(20代。文系)も、「生活の糧」を得るのに苦労している1人。ほぼ最短で博士号を取れるということ自体、優秀な証ですが、現時点では安定した仕事が得られているわけではありません。何とかご自身の専門を生かせる仕事を見つけ、頑張っていらっしゃるようですが、職場でAさんに会った方から、その待遇(時給)を聞いて、おもわず閉口してしまいました。
 
ご本人は悲観することなく、前向きに仕事に取り組んでいらっしゃるのは良いことですが、本当にこのような状態を放置してよいのか、すごくモンモンとしています。
 
博士号を取得した方、特に若い方が、もっと社会で活躍できるようになるには、社会が受け入れてくるようになることに加え、Aさんのような、学問の世界に身を置いている側からの「歩み寄り」も必要だと思っています。
 
かくいう私も、Aさんと似たような状況なので、自戒を込めてそう思うのです。Aさんの待遇の悪さには閉口しましたが、それと同時に、これは自分自身の身に詰まる問題でもあると、はっとさせられました。そして、似たような状況にある仲間や周りの人たちも、そのままではいけないんじゃないかって思うのです。
 
もう何年もの間、どうしたら文系で学問を修めたことが、学問の世界だけで完結せずに社会に還元できるかを考えてきました。また、自分なりに、少しずつですが、社会に還元すべく行動してきました。

ですが、独りよがりではなく、仲間でやっていかないと伝わらないなって、Aさんの風の便りを聞いて、つくづく思います。

博士課程修了生が、様々な場で必要とされ、「生きる糧」を得やすくするために、私にできること、仲間とできることを、一歩ずつやっていこうと思います。