小学生のファッションセンス

今日は、子どもの習い事の付き添いをしていました。一緒に活動している母親同士で、子どもたちの見守りをしながら、立ち話。そこで話題に上がったのが、子ども(小学生)のファッションセンスでした。

 

朝、学校に行くときに、子どもが自分で着る服を決めるかどうかという話をしていましたが、自分を含め、その場にいたお母さんのお子さんたちは、全員「自分で選ぶ」派。自分で選ぶこと自体はいいことだと思うのですが、そのセンスが不可解という話で盛り上がりました。

 

ある小学校4年生の男の子は、わりと派手な色が好きで、ある日、その子が選んだ服が、Tシャツもズボンも「黄色」だったそうです。それに驚いた彼のお母さんは、

 

「ちょっと、それ違うんじゃない?」

 

と言ったそうですが、本人はどこ吹く風。そのまま「行ってきまーす」と元気に学校に行ったそうです。

 

そして、小学校3年生の女の子は、上はお気に入りのボーダーのTシャツを着て、下はストライプのショートパンツをチョイス。その子のお母さんは、心の中で「その組み合わせ、どうなんだろう?」と思われたそうですが、本人がとても気に入っているお洋服なので、「いってらっしゃい」と送り出したそうです。

 

かくいう我が子も、数年前(小学校2~3年の頃)は、上下とも赤または青といった服を選んで登校していたことを思い出しました。親としては、ちょっとそのセンスにびっくりしましたが、本人には、「自分が選んだんだからいいの!」と言われた気がします。

 

子どものファッションセンスは、大人の感覚からすれば、びっくりするものがあります。だから、つい、「おかしいんじゃない?」とか「違うんじゃない?」と言いたくなってしまうことがあるかと思います。でも、ちょっと客観的に考えてみると、周りに何と言われようとも、自分が気に入ったもの・好きなもの・良いと思うものを選ぶということは、尊重すべきことではないかと思いました。

 

「自分の好き」を基準に、着たいものを選ぶということは、子どもの子どもらしい一面なのかもしれません。

 

そう考えると、子どもが周りの目を気にして、着る服を選ぶようになってしまうのは、子どもらしくないのかもしれません。ちょっとギョッとするような洋服のチョイスも、容認したほうがよさそうですね。

 

昨今、個性尊重の教育が叫ばれていますが、子どもが着る服は自分で自由に選び、その選んだことに対して大人が否定しないようにすることも、個性尊重の教育に一役買う気がします。

博士課程修了生に、「生きる糧」を

日本の教育システムでは、大学院の博士課程修了が最終地点です。大学を卒業し、大学院に進学して、博士課程を修了する、つまり、博士号を取得することは、教育システムの最高峰に辿り着いたということになります。
 
しかしながら、そういった博士課程修了生が活躍できる場、特に文系の場合、大学の教員になるなど、かなり限定的なのも事実です。しかも、その大学教員のポストは、ごくごく狭き門で、そのポストに就けるまで、博士課程修了後何年も、場合によっては10年以上かかることもあります。
 
せっかく時間とお金を費やして学んできたことが、その人自身の「生活の糧」として還元されないのも、また、世の中に還元されないのも、本当にもったいないことだと思っています。
 
去年、ほぼ最短年月で博士号を取得したAさん(20代。文系)も、「生活の糧」を得るのに苦労している1人。ほぼ最短で博士号を取れるということ自体、優秀な証ですが、現時点では安定した仕事が得られているわけではありません。何とかご自身の専門を生かせる仕事を見つけ、頑張っていらっしゃるようですが、職場でAさんに会った方から、その待遇(時給)を聞いて、おもわず閉口してしまいました。
 
ご本人は悲観することなく、前向きに仕事に取り組んでいらっしゃるのは良いことですが、本当にこのような状態を放置してよいのか、すごくモンモンとしています。
 
博士号を取得した方、特に若い方が、もっと社会で活躍できるようになるには、社会が受け入れてくるようになることに加え、Aさんのような、学問の世界に身を置いている側からの「歩み寄り」も必要だと思っています。
 
かくいう私も、Aさんと似たような状況なので、自戒を込めてそう思うのです。Aさんの待遇の悪さには閉口しましたが、それと同時に、これは自分自身の身に詰まる問題でもあると、はっとさせられました。そして、似たような状況にある仲間や周りの人たちも、そのままではいけないんじゃないかって思うのです。
 
もう何年もの間、どうしたら文系で学問を修めたことが、学問の世界だけで完結せずに社会に還元できるかを考えてきました。また、自分なりに、少しずつですが、社会に還元すべく行動してきました。

ですが、独りよがりではなく、仲間でやっていかないと伝わらないなって、Aさんの風の便りを聞いて、つくづく思います。

博士課程修了生が、様々な場で必要とされ、「生きる糧」を得やすくするために、私にできること、仲間とできることを、一歩ずつやっていこうと思います。
 

友だちへの思いを、「怒り」ではなく「思いやり」で応える

 一昨日、友だちへの「怒り」の気持ちが、「思いやり」からきていることもあるという、小6男子のことを紹介しました。

tachibanashi.hateblo.jp

 

今日、小6男子(A君)はB君と、B君の家で遊ぶことになったのですが、

 

「遊ぶ前に一緒に宿題をやってから、遊ぼう」

 

と提案したそうです。

 

B君は「いいよ」と言ってくれたそうで、一緒に宿題ができました。A君はB君に教えてあげるために、早く終わらせたのですが、B君はのんびり…。そして、B君は、苦手な算数はやらなかったそうです。

 

でも、ただ怒っているだけじゃなくて、「一緒に宿題する」という発想と、本当に一緒にやったっていうことが、すごいなと思いました!とっても褒めましたが、本人はいたって普通。自然にできるのが、いいなって思いました。

 

B君、今度はA君と一緒に算数もやってくれるといいなあ~。

 

 

 

「同じグループでいるのは辞めよう」という言葉の真意

もう数年前のことですが、ある女子中学生(Aさん)が昼休みに号泣してしまい、授業にも出られない状態になってしまいました。少し落ち着くまで、保健室で過ごすことになりました。

たまたま空き時間だったので、保健室に彼女の様子を見に行きました。泣きじゃくっていて、とても話せる状態ではありませんでした。

待つこと20分。ようやく落ち着いたので、なぜ泣いているのか、話してもらいました。すると…

「なんか、わかんないけど、BさんとCさんに、もう同じグループでいるのは辞めようって言われちゃって…。何で?何か悪いことしたの?良くないところは直すからって言ったけど、特にないからって言われて…もう訳がわかんなくなっちゃって…(以下、涙でしゃべれず)」

Aさんの話では、いつも仲良くしていたBさんとCさんに、その日朝学校に行ったら、突然、一緒のグループでいるのは辞めようと言われたそうです。その日から一緒にお弁当も食べないことになり、昼休みにすごく悲しくなって、涙が止まらなくなってしまったのです。

彼女たちは、Aさんは、Bさん、Cさん、Dさんの4人で仲良しグループだったのですが、Aさんによると、BさんとCさんがいきなり、
「もう4人で一緒にいるのは辞めよう」
と言ってきたそうです。BさんとCさんから、
「自分たちの考えが変わったせいだから、ごめんなさい」
と、一方的に言われたそうです。その日以来、AさんとDさん、BさんとCさんに別れて過ごすようになりました。

この話を聞いて、Aさんがすごく悲しんでいるのが、とても悼まれず、どうにかしてあげたいという気持ちが沸き上がりました。その一方で、友達関係のことだから、そっとしておいたほうがいいのかと迷いました。少し時間をおいて、もう一度話し合ってみても良いかもね、と言うのが精一杯でした。

しばらくの間、Aさんは元気がなかったですが、Bさん・Cさんとは挨拶を交わしたり、ちょっと話をする関係は保っているので、気長に仲直りできることを待つことにしたそうです。

私は、彼女たちの関係が気になっていましたが、静観することにしました。


2カ月ほど経ったある日、BさんとCさんが、話したいことがあると、私のところに来ました。2人は、Aさんと一緒のグループで行動しなくなった理由を話してくれました。

2学期に入ってから、Aさんがだんだん調子に乗ってしまい、BさんやCさんが嫌がること(詳しいことは差し控えますが、身体的な痛みを伴うこと)を、Aさんがするようになったそうです。「痛いから止めて」と、何度言っても止めてくれず、Aさんは面白がってし続けたそうです。

1ヶ月くらいそれが続いて、BさんとCさんは、最初自分だけがされていると思って、誰にも言わず黙っていたそうです。ある日部活の帰り道、たまたま2人で帰った時に、BさんがCさんに相談したら、Cさんも同じことをされていたことが分かったのです。お互いに親に相談したところ、Aさんを傷つけるのはよくないし、自分たちも我慢しすぎるのは良くないから、そっと距離を置くのがいいとアドバイスをもらったそうです。また、Aさんが孤立せず、Dさんとは一緒にいられるように、Dさんにはその事実を伝えず、直接被害にあったBさんとCさんだけが、距離をおくことにしたそうです。

また、BさんとCさんは、他の人にはもちろんですが、Aさんには自分たちの気持ちを言わないでほしいと頼まれました。そして、Bさんは、Aさんに対する思いを、こんな風につぶやいていました。

「Aさん、早く気づいてくれるといいな」と。

この2人の対応を見て、中学生なのに(と言っては失礼ですが)、すごく大人な対応をしていると感心しました。感心したポイントは、以下の4点です。

①Aさんに嫌なことをされたにもかかわらず、Aさんを直接批判しなかったこと。そして、吹聴もしなかったこと。
②BさんとCさんは、自分たちの気持ちも大事にしたこと。
③BさんとCさんは、自分たちがこの件で批判されたとしてもかまわない、だけど言い訳はしないと覚悟を決めたこと。
➃Aさんを孤立させないように、細心の注意を払ったこと。

BさんとCさんが、同じグループでいるのを辞めようと言った真意は、「Aさんに、自分たちが嫌なことをされて、それが分かってくれなかったから仕方がなく別のグループになることを決めたということを早く気付いてほしい」ということでした。友達の足りていないところを、厳しく指摘するのではなく、本人に気づきを促すというやり方です。とても大人っぽい対応で、大人でもなかなかできることではないと思います。

最後に私は、BさんとCさんに、

「Aさんが、あなたたちがされて嫌だったことを、分かってくれて行動が改まったらどうする?」

と聞いたら、「もちろん、元通り同じグループになるよ」

と答えてくれました。友だちを想うってこういうことなんだなあと、彼女たちから、人として大切なことを教えてもらいました。

友だちへの「怒り」の気持ちは、実は「思いやり」だったりする

小6の男の子(A君)が、学校から帰るなり、口をとんがらせながら、興奮した様子で、話し出しました。

 

「B君、今日も学校休んだんだよね。みんなで(注:一緒に帰る、家の方向が同じ仲間のこと)宿題とか届けたんだけど、「まだ頭痛いかも…」って言ってさー。学校来る気あんのかな?休んでいる間も、ゲームばっかりやってたんじゃない?どうせ、宿題もやっていないんだよ。もっと(勉強が)分からなくなっちゃうし…(後略)」

 

A君とB君は、これまで何度か同じクラスになっていて、お互いの家を行き来したり、放課後も遊ぶような仲です。B君は、お休みが2日続いていたのですが、届け物をした時に、「たいして具合が悪くない(とA君は感じた)のに、なんで学校に来ないんだろう?」と感じたようで、とても怒っていました。あまりに興奮しているので、

 

「B君のこと、そんなに心配なの?」と聞いたところ、

 

「心配に決まってんじゃん。だってさ、算数だって、全然わかんないみたいだし。だったら俺、あいつと遊ぶ時に一緒に宿題やろうって言うけど、「宿題、持ってくるの忘れた」とか、「お母さんとやるからいい」とかで、誘っているのに無視するんだよ。本当に自分でやってるのかな?このまま中学行って、大丈夫なのかな…(後略)」と、まだまだ興奮冷めやらぬ感じでした。

 

A君は、仲良しの友達であるB君が、算数が苦手なことを良く分かっています。一方、A君自身は算数が得意です。友達がそんなに困っているなら、助けてあげたいと思っています。でも、何か逃げ腰なB君に対して、「許せない」と思ってしまい、でも何か自分はしなければ…と思って、どうしていいか分からなくなってしまったようでした。

 

A君が、B君に対して怒ってしまったのは、どうやら「思いやり」からきているようです。また、「怒り」は、B君に向けられているというより、B君の役に立てない自分自身に対するほうが大きいように思いました。そこで、

 

「A君は、B君のことが心配なんだよね。じゃあ、うちで遊ぶときは、必ず宿題を持ってきてもらって一緒にやったらどう?心配なら(私がいれば)様子を見ているけど、どうかな?」

 

と提案したところ、

 

「それ、いいね。宿題忘れたって言ったら、取りに帰らせる!」

 

と、まだ怒りは完全に収まらない感じで答えていました。

 

もう一つの方法として、担任の先生に、「B君のことが心配になっちゃって、困っている」と、自分の気持ちを伝えてみることを提案しました。が、「えー、めんどくさい」と言って却下されてしまいました。そこで、ちょっと食い下がって…

 

「B君のことは、A君だけが心配しているんじゃないでしょ?だったら、自分だけじゃなくて、他の友達と一緒に、先生に自分たちの気持ちを伝えに言ったら?」

 

と伝えました。そうしたら、だいぶトーンダウンして、「ほかの友達と一緒なら、言えるかも」と答えてくれました。

 

仕事上、中学生以上の子と接する機会が多いのですが、経験上、これが中1だったら、もっとB君のことをもう少しそっとしておくと思います。たった1歳違いと言えども、小6だと、友達を見守ってはいられず、ほおっておけなくなってしまうようです。それはA君に限らず、少なくともB君の家に届け物をした5~6人の仲間も、ほおっておけないと強く感じ、怒りを感じていたようです。

 

子どもがプンプンと怒っている時、それが本当に相手に対して怒っているのかは、よく見極めなければならないようですね。

 

つい、「そんなに友だちのことを悪く言っちゃだめだよ」とか、「そんなに怒ったってダメじゃない」とか、「そっとしてあげなさい」と大人目線で言ってしまいがちですが、「怒り」の奥にある本当の気持ちを、言葉にしてあげる必要があるんだなあということを、A君の「怒り」から学びました。小学生って難しいなあ~。

 

 

 

 

 

思わぬところで、恩師の近況を知る

一昨日のこと。子どもの習い事に、OBである高校生がお手伝いに来てくれました。私自身は、その高校生とは「はじめまして」だったのですが、試験前などで自分の練習がない時は、時々顔を出してくれるそうです。子どもたちにとって、その男子高校生は、自分たちと同じように練習をしていて、強豪校の選手になったので、まさに憧れの存在です。親としては、そんなすごい先輩が来てくれるのは、ありがたい限りです。ちなみに、その高校生は、偶然にも私の高校の後輩でした。

 

高校時代の担任の先生が、子どもがやっている習い事のスポーツの顧問をしていたことを話したところ、「◯◯先生ですか?」と聞かれました。「いや、もうだいぶ前の先生だから知らないと思うけど、△△先生って言うんだけどね」と答えました。すると、

 

「その先生知ってます!」

 

と答えてくれたのです。とても驚いて、「何で知っているの?」と聞いたところ、

 

「強化練習のコーチをしてくださったので、知っています」

 

と教えてくれました。

 

担任の先生とは、もうしばらく連絡をとっておらず、持病もお持ちなので、お元気なのかなと気がかりでした。5年ほど前に定年退職をしているはずなので、もうそのスポーツとも縁遠くなっているのかと勝手に思っていました。

 

偶然出会った高校生から、元担任の先生がまだまだお元気で、今なおご活躍であることを聞き、本当に嬉しく思いました。

 

その担任の先生には、とても感謝していることがあります。それは、社会人になって、大学院に再入学して、母校である高校での教育実習をするためのやり取りを通じて、先生が私の性格をよく分かってくださっていたことを知る機会があったことです。

 

私が教育実習に行った時期は、ちょうど教員免許法が改正される時期だったのですが、ほかの学生の教育実習の期間が2週間だったのに、大学院生で教員免許を取っていた私の場合、新しい免許法がされるため、1人だけ例外的に3週間実習になってしまうという事情でした(新免許法では3週間実習、旧免許法では2週間実習という時期でした)。高校の教務の先生から、

 

「出身の中学校にも聞いてみて、ダメだったら特別に受け入れます」

 

と言われてしまいました。

 

このことを大学に報告し、教職課程の先生と相談した結果、高校側の言うとおりに中学校に聞いてみて、断られたら高校に打診することにしました。

 

そして、地元の中学校に、教育実習を受け入れていただけるか連絡したところ、一緒に実習をする方が、偶然短大生の方(この方も3週間実習)だったので、すんなりと受け入れて下さることになりました。

 

実は、元担任の先生の担当科目と私の専門が同じなので、ぜひその先生に、教育実習の指導をしていただきたいと思っていました。しかし、中学校で受け入れて下さることになったので、高校で実習することは諦めなければならず、元担任の先生に指導していただけないことが、とても残念でなりませんでした。

 

高校に連絡を入れようと思っていた矢先、なんと元担任の先生から、自宅に電話をいただきました。その時に、こんなことを言われました。

 

「お前のことだから、馬鹿正直に中学校に実習の申し込みをしたんじゃないかと思って…。まさか、中学に電話してないよな?」

 

とおっしゃるではありませんか。もちろん、私も大人なので、学校側の事情(本音)は分かっていたつもりでした。しかし、教育実習というのは、大学を通してお願いしていることですから、社会人学生ということもあり、大学にも迷惑をかけたくなかったので、大学の先生とも相談して、正攻法で行動したのでした。

 

先生は、私が大学の先生と相談した上で、中学校に許諾してもらったことを伝えたら、「だから言わんこっちゃない」ということを言われ、先生もとても残念がってくださいました。

 

私としても、高校で実習をしたいと思っていましたし、自分の担任の先生と偶然同じ科目でその先生に指導していただけるチャンスを逃したことは、非常に残念でした。でも、このやりとりのおかげで、卒業して10年弱の月日を経ても、私の性格などをすごく良く分かっていてくださっているのを知ることができたのが、何より嬉しかったです。

 

「先生って、生徒にとってはいつまでも先生なんだなあ~」と、先生に対する感謝の気持ちが沸き上がったことを、今でも鮮明に覚えています。高校時代の元担任の先生は、私にとって、間違いなく心に残っている先生の一人です。

 

このやり取りの1年後、中学校に教育実習に行き、その数か月後に晴れて教員になることが決まったので、先生には、自分も先生と同じ職業に就くことになることを、電話で報告しました。

 

それ以来、先生とはすっかりご無沙汰してしまっています。当時のことは、とても感謝していますが、教員になったからこそ、ますます先生が私にしてくださったことがありがたいことだと思えるようになりました。教員になる直前に、先生から大切なことを教えていただいたので、教員時代、一人一人の生徒のこと(性格・性質)を、なるべく理解しようと思って接するよう心がけていました。そして、今は、担任の先生が私にしてくださったような、生徒思いの先生が、一人でも多く教育現場で活躍してくれることを願って、日々仕事をしています。

 

そんな思いで教育に携わることができるようになったのは、間違いなく高校時代の担任の先生のおかげなのです。一昨日の高校生との出会いは、近いうちに、なんとかチャンスを得て、元担任の先生にお会いして、近況報告を兼ねてお礼を言いたいと思わせてくれた、良い機会でした。

誰に対しても、年相応に接するということ

昨日は、子どもの習い事があり、親として付き添いをしていました。練習の後、普段であればすぐに帰るのですが、珍しく母親同士で立ち話をしていたら、ずいぶん話し込んでしまいました(何と1時間も…)。話の内容の詳細は書くことは控えますが、お悩み相談含め、すごく真面目な話をしました。その時に、とても大切なことを教えていただいたので、それについて書きたいと思います。

 

ある方のお子さんは、発達障害を持っているので、特別支援学級に通っています。その方によると、発達障害を持ったお子さんは、友達や先生、他人との距離の取り方を状況から掴んでいくのが苦手なお子さんが多いとのことでした。

 

その方によると、発達障害を抱えた子が、距離の取り方が苦手になってしまう一因として、学校の先生が、発達障害を持っている子どもに接する時の、スキンシップの仕方も関係していることを指摘されていました。具体的には、小学校3年生以上の子に対しても、次のような接し方をすることだと、教えてくださいました。

 

*四六時中、手をつなぐ。

*(幼児が泣いているときにするように)、すぐにギュッと、ハグをする。

*「よく頑張ったね~えらいね~、よしよし」といって、頻回に頭をなでる。

 

ここでは、たとえ話で考えてみたいと思います。小学校5年生の発達障害を抱えているお子さんがいるとします。その子は、不安なことがあると、パニックになってしまい、3~4歳くらいの子どものように、ワンワンと泣いてしまうとします。その時に、先生や支援員の方は、「まず落ち着かせなければ」と思って、とっさに、その子をギュッとハグをするという対応をするということが考えられます。私がその場にいる教員だとしたら、おそらく同じようなことをしてしまうと思います。

 

しかし、冷静になってよく考えてみたら、いくら3~4才くらいの子のように、ワンワンと泣いてしまったとしても、その子は小学校5年生なのです。その行動が、幼児のようだとしても、その子の実年齢は11歳だということを、どうしても忘れてしまいがちなのです。特に、相手との関係性や状況によって、人との距離の取り方を変えることが苦手な子にとって、いつまでも幼い子のように扱われていると、自分はそれでいいのだと思ってしまい、いつまでも、小さい子のように振舞ってしまうということです。

 

そのお話を聞いて、子どもの行動、つまり外見で判断してしまい、その子の年相応のコミュニケーションの仕方を教えてあげないことが、結果的に、発達障害を持った子を苦しめてしまうということを学びました。このことは、学校の教員や支援員といった、発達障害の子どもと接する機会が多い方はもちろんですが、大人・子ども問わずすべての人が、ぜひ知っておくべきことではないかと思いました。

 

そもそも、よく考えてみれば、上記の話は、発達障害の子だからということではなく、人を外見だけで判断してしまっている事例だと思います。ちょっと悲しいですが、人間というのは、他者を外見で判断しがちな生きものなのですね。

 

ですが、外見で判断してしまうことをダメだと責めるよりは、他者を外見で判断しがちであることを認めた上で、たとえ行動が幼くても、年相応の接し方をしていこうと意識することが大事だと思いました。その関わり方を、一人一人が考えることが、発達障害を持った子どもにとって、より社会へ適応しやすくなる一つのステップになると思います。

 

「道徳の授業で扱ったらいいテーマだな」と思ってしまいました。職業病ですね(^-^;