大学生の親世代が受けてきた教育が、進路選択に与えた影響

昨日は祝日(海の日)ですが、大学の授業は、暦に関係なく決行。月曜日に授業を持っている大学は、ビジネス街にあるので、街は閑散としていて、学生もこちらも調子を崩す感じでした。

それはさておき、昨日の授業で扱ったテーマが、大学生の親世代(おおむね50代~60代前半)が学校教育を受けた時期である、1970年代の教育観が形成された背景に関することでした。授業を履修している大学生たちに、大学受験をするにあたって、親世代(学校の教員含む)のどんな教育観に触れたことがあったかを、グループで話してもらいました。本人の意思を尊重してもらって進路を決めた方が多かった一方、こんな意見が出ました。




- 理系のほうが良い(理系に進みなさい)。

  • 国立大学を受けなさい。
  • 名の知れた大学を選びなさい。
  • そこそこの偏差値の大学に進学しなさい。

大学生の親世代は、1968年の学習指導要領改訂(小学校は1971年、中学は1972年、高校は1973年施行)よって定められた教育課程の下、教育を受けました。そのポイントは、「教育内容の現代化」で、学習時間・内容が他のどの時期に比べても多く、理数教育に力を入れていたという特徴があります。

また、1960年代から高校進学率が徐々に上昇し、1973年には90%を超え、それに伴って大学進学率も上がってくる時期で、いわゆる受験競争が激しくなった時期でした。

そんな時期に教育を受けた世代である大学生の親世代の方は、受験に対する意識も高く、理数教育に力を入れていたことも手伝って、理数系に進学すること・より難関校を目指すことが当然だと思っている傾向があるように思います。

ちなみに、昨日授業をした大学生たちは、全員理数系です。親世代の方に強く薦められて理数系を選択したか、聞いてみました。ほとんどの方が、自分の意思(背中を押された方含む)で決めたそうですが、ある学生さんが帰りがけに言った一言に驚きました。

センター試験で国語は8割を超えていたのに、数学Ⅱは××点だったんです!」

私を含め、その場にいた仲間が、

「えーーーっ!!!」

と衝撃を受けました。

ご本人は芸術系に進学したかったそうですが、得意ではない理数系に進んだのは、親御さんが理数系を強く薦めたからだそうです。でも、いまさら進路変更するつもりはないので、このまま頑張るとのことでした。


この学生さんの事例は極端な例かもしれませんが、今の大学生の親世代の方が、理数系を重視しているという風潮はあるようです。また、生徒さんやお子さんの得意な科目に合った進路というよりは、自分が受けた教育が正しいという考えに基づき、指導や助言をすることがあるということです。

このことは、言い換えれば、アドバイスする側というのは、自分が受けてきた教育を基準にしてしまう傾向にあると言えるのではないでしょうか。進路の選択は、本人の意思を尊重したいところです。でも、アドバイスする側も自分が正しいと思ってやってきたことですから、なかなか難しいですよね。

「アドバイスする側が、自分が受けてきた教育を客観視できるかが、若者の進路選択を左右しかねない」、そう心に刻んでおきたいと思いました。

最後に笑う人は、最初からは分からない

 今日も、昨日に引き続き、子どもの習い事の付き添いでした。また、母親同士で子どもたちの練習を見守りながら、立ち話をしたので、そのうちの一エピソードを書きたいと思います。

 

コーチが、新しく入った子たちに対して、「この子は◯◯だよね」とコメントをしているのを聞いて、指導をする方は、ちょっと子どもたちがやっているところを見ただけで、いろいろなことが分かるのかなあと感じました。

 

そのことを、あるお母さんに話したところ、その方のお子さん(高2・女子)の話をしてくださいました。

 

そのお嬢さんは、高校に入学して部活に入った時に、そのお母さんのお話では、部の中で一番上手ではなかったそうです。お母さんも、「大変だったら、部活辞めていいよ」と言っていたそうですが、練習を重ねているうちに、どんどん上手になっていき、高3が引退した今では、エースをつとめているそうです。

 

どうしても、指導者の方に、「君は◯◯だよね」、「いくら注意しても、できないよね」ということを言われると、本人も親も「そうかなあ~。頑張ってもできないから、自分(うちの子)はセンスないや…」と思ってしまいがちではないでしょうか。うちは親子共々そう思ってしまい、必要以上に落ち込むことが多いです。

 

でも、このお話を聞いて、やはり最初はそんなにできなかったとしても、本人の努力次第で、エースになることだって十分あることが、良く分かりました。

 

よく考えてみれば、当たり前のことですよね。でも、長年そのスポーツの指導者をされてきた方に、「センスがある」と言われれば嬉しくなり、「全然できていない」と言われれば、「自分なんかどうせダメなんだ」と落ち込んでしまうもの。

 

教員も知らず知らずのうちに、子どもたちに対してコメントをしてしまうことがあると思います。でも、専門家である教員に、プラスではないこと言われると、「自分なんか、どうせダメなんだ…」と、子どもたちは否定的に感じてしまうのだと思います。

 

この女子高生のように、ひたむきに努力することで、最後は「笑う人」に成り得るんだということが分かっただけでも、頑張ってスポーツをやっている子どもたちにとっては、大きな心の支えになると思います。

 

このお話が聞けてよかったです。厳しい指導を受けて落ち込んでいる子がいたら、今日聞いたお話をしてあげたいと思います。

 

小学生のファッションセンス

今日は、子どもの習い事の付き添いをしていました。一緒に活動している母親同士で、子どもたちの見守りをしながら、立ち話。そこで話題に上がったのが、子ども(小学生)のファッションセンスでした。

 

朝、学校に行くときに、子どもが自分で着る服を決めるかどうかという話をしていましたが、自分を含め、その場にいたお母さんのお子さんたちは、全員「自分で選ぶ」派。自分で選ぶこと自体はいいことだと思うのですが、そのセンスが不可解という話で盛り上がりました。

 

ある小学校4年生の男の子は、わりと派手な色が好きで、ある日、その子が選んだ服が、Tシャツもズボンも「黄色」だったそうです。それに驚いた彼のお母さんは、

 

「ちょっと、それ違うんじゃない?」

 

と言ったそうですが、本人はどこ吹く風。そのまま「行ってきまーす」と元気に学校に行ったそうです。

 

そして、小学校3年生の女の子は、上はお気に入りのボーダーのTシャツを着て、下はストライプのショートパンツをチョイス。その子のお母さんは、心の中で「その組み合わせ、どうなんだろう?」と思われたそうですが、本人がとても気に入っているお洋服なので、「いってらっしゃい」と送り出したそうです。

 

かくいう我が子も、数年前(小学校2~3年の頃)は、上下とも赤または青といった服を選んで登校していたことを思い出しました。親としては、ちょっとそのセンスにびっくりしましたが、本人には、「自分が選んだんだからいいの!」と言われた気がします。

 

子どものファッションセンスは、大人の感覚からすれば、びっくりするものがあります。だから、つい、「おかしいんじゃない?」とか「違うんじゃない?」と言いたくなってしまうことがあるかと思います。でも、ちょっと客観的に考えてみると、周りに何と言われようとも、自分が気に入ったもの・好きなもの・良いと思うものを選ぶということは、尊重すべきことではないかと思いました。

 

「自分の好き」を基準に、着たいものを選ぶということは、子どもの子どもらしい一面なのかもしれません。

 

そう考えると、子どもが周りの目を気にして、着る服を選ぶようになってしまうのは、子どもらしくないのかもしれません。ちょっとギョッとするような洋服のチョイスも、容認したほうがよさそうですね。

 

昨今、個性尊重の教育が叫ばれていますが、子どもが着る服は自分で自由に選び、その選んだことに対して大人が否定しないようにすることも、個性尊重の教育に一役買う気がします。

博士課程修了生に、「生きる糧」を

日本の教育システムでは、大学院の博士課程修了が最終地点です。大学を卒業し、大学院に進学して、博士課程を修了する、つまり、博士号を取得することは、教育システムの最高峰に辿り着いたということになります。
 
しかしながら、そういった博士課程修了生が活躍できる場、特に文系の場合、大学の教員になるなど、かなり限定的なのも事実です。しかも、その大学教員のポストは、ごくごく狭き門で、そのポストに就けるまで、博士課程修了後何年も、場合によっては10年以上かかることもあります。
 
せっかく時間とお金を費やして学んできたことが、その人自身の「生活の糧」として還元されないのも、また、世の中に還元されないのも、本当にもったいないことだと思っています。
 
去年、ほぼ最短年月で博士号を取得したAさん(20代。文系)も、「生活の糧」を得るのに苦労している1人。ほぼ最短で博士号を取れるということ自体、優秀な証ですが、現時点では安定した仕事が得られているわけではありません。何とかご自身の専門を生かせる仕事を見つけ、頑張っていらっしゃるようですが、職場でAさんに会った方から、その待遇(時給)を聞いて、おもわず閉口してしまいました。
 
ご本人は悲観することなく、前向きに仕事に取り組んでいらっしゃるのは良いことですが、本当にこのような状態を放置してよいのか、すごくモンモンとしています。
 
博士号を取得した方、特に若い方が、もっと社会で活躍できるようになるには、社会が受け入れてくるようになることに加え、Aさんのような、学問の世界に身を置いている側からの「歩み寄り」も必要だと思っています。
 
かくいう私も、Aさんと似たような状況なので、自戒を込めてそう思うのです。Aさんの待遇の悪さには閉口しましたが、それと同時に、これは自分自身の身に詰まる問題でもあると、はっとさせられました。そして、似たような状況にある仲間や周りの人たちも、そのままではいけないんじゃないかって思うのです。
 
もう何年もの間、どうしたら文系で学問を修めたことが、学問の世界だけで完結せずに社会に還元できるかを考えてきました。また、自分なりに、少しずつですが、社会に還元すべく行動してきました。

ですが、独りよがりではなく、仲間でやっていかないと伝わらないなって、Aさんの風の便りを聞いて、つくづく思います。

博士課程修了生が、様々な場で必要とされ、「生きる糧」を得やすくするために、私にできること、仲間とできることを、一歩ずつやっていこうと思います。
 

友だちへの思いを、「怒り」ではなく「思いやり」で応える

 一昨日、友だちへの「怒り」の気持ちが、「思いやり」からきていることもあるという、小6男子のことを紹介しました。

tachibanashi.hateblo.jp

 

今日、小6男子(A君)はB君と、B君の家で遊ぶことになったのですが、

 

「遊ぶ前に一緒に宿題をやってから、遊ぼう」

 

と提案したそうです。

 

B君は「いいよ」と言ってくれたそうで、一緒に宿題ができました。A君はB君に教えてあげるために、早く終わらせたのですが、B君はのんびり…。そして、B君は、苦手な算数はやらなかったそうです。

 

でも、ただ怒っているだけじゃなくて、「一緒に宿題する」という発想と、本当に一緒にやったっていうことが、すごいなと思いました!とっても褒めましたが、本人はいたって普通。自然にできるのが、いいなって思いました。

 

B君、今度はA君と一緒に算数もやってくれるといいなあ~。

 

 

 

「同じグループでいるのは辞めよう」という言葉の真意

もう数年前のことですが、ある女子中学生(Aさん)が昼休みに号泣してしまい、授業にも出られない状態になってしまいました。少し落ち着くまで、保健室で過ごすことになりました。

たまたま空き時間だったので、保健室に彼女の様子を見に行きました。泣きじゃくっていて、とても話せる状態ではありませんでした。

待つこと20分。ようやく落ち着いたので、なぜ泣いているのか、話してもらいました。すると…

「なんか、わかんないけど、BさんとCさんに、もう同じグループでいるのは辞めようって言われちゃって…。何で?何か悪いことしたの?良くないところは直すからって言ったけど、特にないからって言われて…もう訳がわかんなくなっちゃって…(以下、涙でしゃべれず)」

Aさんの話では、いつも仲良くしていたBさんとCさんに、その日朝学校に行ったら、突然、一緒のグループでいるのは辞めようと言われたそうです。その日から一緒にお弁当も食べないことになり、昼休みにすごく悲しくなって、涙が止まらなくなってしまったのです。

彼女たちは、Aさんは、Bさん、Cさん、Dさんの4人で仲良しグループだったのですが、Aさんによると、BさんとCさんがいきなり、
「もう4人で一緒にいるのは辞めよう」
と言ってきたそうです。BさんとCさんから、
「自分たちの考えが変わったせいだから、ごめんなさい」
と、一方的に言われたそうです。その日以来、AさんとDさん、BさんとCさんに別れて過ごすようになりました。

この話を聞いて、Aさんがすごく悲しんでいるのが、とても悼まれず、どうにかしてあげたいという気持ちが沸き上がりました。その一方で、友達関係のことだから、そっとしておいたほうがいいのかと迷いました。少し時間をおいて、もう一度話し合ってみても良いかもね、と言うのが精一杯でした。

しばらくの間、Aさんは元気がなかったですが、Bさん・Cさんとは挨拶を交わしたり、ちょっと話をする関係は保っているので、気長に仲直りできることを待つことにしたそうです。

私は、彼女たちの関係が気になっていましたが、静観することにしました。


2カ月ほど経ったある日、BさんとCさんが、話したいことがあると、私のところに来ました。2人は、Aさんと一緒のグループで行動しなくなった理由を話してくれました。

2学期に入ってから、Aさんがだんだん調子に乗ってしまい、BさんやCさんが嫌がること(詳しいことは差し控えますが、身体的な痛みを伴うこと)を、Aさんがするようになったそうです。「痛いから止めて」と、何度言っても止めてくれず、Aさんは面白がってし続けたそうです。

1ヶ月くらいそれが続いて、BさんとCさんは、最初自分だけがされていると思って、誰にも言わず黙っていたそうです。ある日部活の帰り道、たまたま2人で帰った時に、BさんがCさんに相談したら、Cさんも同じことをされていたことが分かったのです。お互いに親に相談したところ、Aさんを傷つけるのはよくないし、自分たちも我慢しすぎるのは良くないから、そっと距離を置くのがいいとアドバイスをもらったそうです。また、Aさんが孤立せず、Dさんとは一緒にいられるように、Dさんにはその事実を伝えず、直接被害にあったBさんとCさんだけが、距離をおくことにしたそうです。

また、BさんとCさんは、他の人にはもちろんですが、Aさんには自分たちの気持ちを言わないでほしいと頼まれました。そして、Bさんは、Aさんに対する思いを、こんな風につぶやいていました。

「Aさん、早く気づいてくれるといいな」と。

この2人の対応を見て、中学生なのに(と言っては失礼ですが)、すごく大人な対応をしていると感心しました。感心したポイントは、以下の4点です。

①Aさんに嫌なことをされたにもかかわらず、Aさんを直接批判しなかったこと。そして、吹聴もしなかったこと。
②BさんとCさんは、自分たちの気持ちも大事にしたこと。
③BさんとCさんは、自分たちがこの件で批判されたとしてもかまわない、だけど言い訳はしないと覚悟を決めたこと。
➃Aさんを孤立させないように、細心の注意を払ったこと。

BさんとCさんが、同じグループでいるのを辞めようと言った真意は、「Aさんに、自分たちが嫌なことをされて、それが分かってくれなかったから仕方がなく別のグループになることを決めたということを早く気付いてほしい」ということでした。友達の足りていないところを、厳しく指摘するのではなく、本人に気づきを促すというやり方です。とても大人っぽい対応で、大人でもなかなかできることではないと思います。

最後に私は、BさんとCさんに、

「Aさんが、あなたたちがされて嫌だったことを、分かってくれて行動が改まったらどうする?」

と聞いたら、「もちろん、元通り同じグループになるよ」

と答えてくれました。友だちを想うってこういうことなんだなあと、彼女たちから、人として大切なことを教えてもらいました。

友だちへの「怒り」の気持ちは、実は「思いやり」だったりする

小6の男の子(A君)が、学校から帰るなり、口をとんがらせながら、興奮した様子で、話し出しました。

 

「B君、今日も学校休んだんだよね。みんなで(注:一緒に帰る、家の方向が同じ仲間のこと)宿題とか届けたんだけど、「まだ頭痛いかも…」って言ってさー。学校来る気あんのかな?休んでいる間も、ゲームばっかりやってたんじゃない?どうせ、宿題もやっていないんだよ。もっと(勉強が)分からなくなっちゃうし…(後略)」

 

A君とB君は、これまで何度か同じクラスになっていて、お互いの家を行き来したり、放課後も遊ぶような仲です。B君は、お休みが2日続いていたのですが、届け物をした時に、「たいして具合が悪くない(とA君は感じた)のに、なんで学校に来ないんだろう?」と感じたようで、とても怒っていました。あまりに興奮しているので、

 

「B君のこと、そんなに心配なの?」と聞いたところ、

 

「心配に決まってんじゃん。だってさ、算数だって、全然わかんないみたいだし。だったら俺、あいつと遊ぶ時に一緒に宿題やろうって言うけど、「宿題、持ってくるの忘れた」とか、「お母さんとやるからいい」とかで、誘っているのに無視するんだよ。本当に自分でやってるのかな?このまま中学行って、大丈夫なのかな…(後略)」と、まだまだ興奮冷めやらぬ感じでした。

 

A君は、仲良しの友達であるB君が、算数が苦手なことを良く分かっています。一方、A君自身は算数が得意です。友達がそんなに困っているなら、助けてあげたいと思っています。でも、何か逃げ腰なB君に対して、「許せない」と思ってしまい、でも何か自分はしなければ…と思って、どうしていいか分からなくなってしまったようでした。

 

A君が、B君に対して怒ってしまったのは、どうやら「思いやり」からきているようです。また、「怒り」は、B君に向けられているというより、B君の役に立てない自分自身に対するほうが大きいように思いました。そこで、

 

「A君は、B君のことが心配なんだよね。じゃあ、うちで遊ぶときは、必ず宿題を持ってきてもらって一緒にやったらどう?心配なら(私がいれば)様子を見ているけど、どうかな?」

 

と提案したところ、

 

「それ、いいね。宿題忘れたって言ったら、取りに帰らせる!」

 

と、まだ怒りは完全に収まらない感じで答えていました。

 

もう一つの方法として、担任の先生に、「B君のことが心配になっちゃって、困っている」と、自分の気持ちを伝えてみることを提案しました。が、「えー、めんどくさい」と言って却下されてしまいました。そこで、ちょっと食い下がって…

 

「B君のことは、A君だけが心配しているんじゃないでしょ?だったら、自分だけじゃなくて、他の友達と一緒に、先生に自分たちの気持ちを伝えに言ったら?」

 

と伝えました。そうしたら、だいぶトーンダウンして、「ほかの友達と一緒なら、言えるかも」と答えてくれました。

 

仕事上、中学生以上の子と接する機会が多いのですが、経験上、これが中1だったら、もっとB君のことをもう少しそっとしておくと思います。たった1歳違いと言えども、小6だと、友達を見守ってはいられず、ほおっておけなくなってしまうようです。それはA君に限らず、少なくともB君の家に届け物をした5~6人の仲間も、ほおっておけないと強く感じ、怒りを感じていたようです。

 

子どもがプンプンと怒っている時、それが本当に相手に対して怒っているのかは、よく見極めなければならないようですね。

 

つい、「そんなに友だちのことを悪く言っちゃだめだよ」とか、「そんなに怒ったってダメじゃない」とか、「そっとしてあげなさい」と大人目線で言ってしまいがちですが、「怒り」の奥にある本当の気持ちを、言葉にしてあげる必要があるんだなあということを、A君の「怒り」から学びました。小学生って難しいなあ~。